2013/06/30

校正を手がけた本が発売になりました!



4月末から校正を手がけていた本が、
ほぼ同時に発売になりました!
『しつもんマーケティング』と、
『なぜ、ぼくはこんな生き方・働き方をしているのだろう?』の2冊。
著者はどちらもマツダミヒロさんです。
『しつもんマーケティング』は、
マーケティングにおいて大切なことを、
専門用語を使わずに解説しています。
しつもんに答えるだけでファンができるのだからすごいこと。
『なぜ、ぼくは〜』の方は、生き方や働き方に迷ったときに
ぜひ読んでいただきたい本です。
どちらも読みやすいので、
お手に取っていただけると嬉しいです。
『しつもんマーケティング』角川フォレスタ
『なぜ、ぼくはこんな生き方・働き方をしているのだろう?』アース・スター エンターテイメント

2013/06/27

命を削る

 「著者は命を削って本を書く」と言われるが、校正者も同じように「命を削って校正している」のだとつくづく思う。
 4月末から校正を手がけていた本が2冊、ほぼ同時に発売になった。どんなに大変だった本でも、実際に印刷・製本された状態で手元に届くと、本当にほっとする。まだ残るインクの匂いをいっぱいに吸い込み、パラパラとページをめくる。言葉じりに悩み、別の表現に変えたほうがいいのではないか、自分の日本語が間違っているのではないか、と迷いに迷いながら赤ペンを入れた膨大な時間が、この瞬間に報われる。このときのために仕事をしているのだ、と思わずにはいられない。
 校正は「こういうことを言いたいのだろうか」「この表現でいいのか」「これで読者に伝わるのか」という自問自答が果てしなく続く作業だ。明快な正解がないことも多い。そして、本文に間違いがなくて当たり前。その分、ベクトルが自分に向くことも多く、本当に消耗する。それでも、その本がたくさんの読者の方に読んでいただけたと知ったときは、やはりとても嬉しいものだ。
 200ページの原稿の中で、ほんの小さな句読点の位置を修正する、助詞ひとつを変えることにプライドを感じる、そんな校正者でありたい。そしてそれこそが、「神は細部に宿る」ということの証だと思うのだ。

2013/06/20

頭を垂れる

 親は会社員と短大の講師、という環境で育った私には、自分でビジネスをするという感覚がかけらほども備わっていなかった。
 自分で決断してフリーランスという世界に飛び込み、微々たるものではあるけれど、どうやって売上を上げるのか、どうやってビジネスを広げていくのかということを自分の身に置き換えて考えるようになって、会社員とはなんと恵まれているのだろう、といまさらながらつくづくと思う。
 でも、今の私は自分の人生を自分で決めているという手応えがあるのが楽しい。もちろん悩むことも迷うこともたくさんある。それでも、会社という器に自分の体を預けていたときよりも、ずっとずっと自分の人生を大事にできている。そして、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざの真理を、身に沁みて実感している。ベストを尽くし、自分にできる精一杯の仕事をしていかなければ、と心に誓うのみだ。

2013/06/11

小さなごほうび

「だから、私はフラの仲間にも心開いてきたし、新しく知り合うオハナちゃんを恐れなかったし、これからもどんどん家族になっていく自信があるよ。だってけんかもできないようないやな人だったら離れればよかったんだもの。一度創り始めてしまえばどんどん積み重なって大きく深くなっていくものだから。
 そういうふうに意図して創っていくとね、人間関係は絶対的にゆるされている大きな海みたいになるんだよ。あっという間にこわすことができるからこそ、慎重に、まるで赤ちゃんを抱くみたいに、人と人との関係を抱くことができるのよ。」
(よしもとばなな『まぼろしハワイ』幻冬舎、「まぼろしハワイ」116ページより)
 人間関係は絶対的にゆるされている海だ、と思えるようになったのはここ3年ほどのこと。それまでは、人間関係は常に煩わしく、トゲトゲしていないとすぐに嫌な思いをする、そんなものでしかなかった。心を割って話せる人など、ほとんどいないしこのままいないのだろう、と思っていた。
 それが今は、大好きな友達がいて、大切な仲間がいる。たとえ私が何か大きな失敗をしたり、人ができることができなかったりしても、きっとあたたかく受け止めてくれる、そう信じられる人たち。今こうやっていられるのは、人間関係でたくさん嫌な思いをしてきたことの小さなごほうびなのではないだろうかと、実はこっそり思っている。

2013/06/07

響く理由

 私が感動した本を人に勧めても、相手にとってそうなるとは限らない。もちろん本に限らず、音楽や人からの言葉も然りだ。
 感動したり心に沁みたりするのは、その本や音楽に、他者の中に発見できる自分の一部があるからなのだと思う。人はそれぞれ違うのだから、たとえ他の人に響いたとしても、自分の一部がそこに見つからなければ、響かないのは当たり前なのだ。
 私は他者の文章に自分の一部を発見したいし、私の中に発見できる誰かの一部があるような文章を書きたい。