2013/02/05

愛憎うずまく場所

 一時期、まるで趣味のように引っ越しを繰り返していたことがある。これまでに引っ越した回数は11回、自分でも呆れる。
 街の記憶はさまざまあれど、自分が一生懸命生きた場所は思い出深い。静岡しかり、イギリスしかり、神保町しかり。中でも神保町は、忘れようと思っても忘れられない、愛憎うずまく場所だ。
 もともと、出版社で働きたいという希望は、ちっとも持っていなかった。なかなか内定がもらえず、鬱々としていたときに新聞に載っていた小さな求人情報を見つけ、なぜか「私はここに入ることに決まっている」という根拠のない確信を持って履歴書を送ったのは7月に入ってから。上京して、1日で小論文の試験と3回の面接を受け、次の日には内定の連絡をもらったのだった。
 編集部に配属されてからは、仕事に追われる毎日だった。専門出版社だったその会社の分野に私は疎く、「こんなことも知らないのか」という目で見られることも多かったし、「地方の公立大学卒の、専門知識もない、しかも女性に何ができる」と言われたこともある。悔しくて悔しくて、見返すためにますます仕事にのめり込んだ。パンツスーツとパンプスは戦闘服だったし、神保町駅に降り立つと、自然に仕事のスイッチが入るものだった。そんな中で、外出の帰りや仕事が早く終わったときに少しだけ書店に寄るのが、ほんのつかの間の息抜きだった。志半ばで会社を辞めてからは、大好きな出版業界にいられなくなった自分が歯がゆくて、神保町を歩くことは一切なくなった。
 昨年、何年ぶりなのか思い出せないほど久しぶりに神保町を歩いた。神保町にはあらゆるところに思い出が溢れている。自分が作った本の増刷が決まり、弾むように書店に行ったこともあるし、反対に大きな失敗をやらかして、ぐすぐすと半泣きになりながらうつむいて歩いたこともある。あのころ、神保町という場所は、私の生活の、ほとんどすべてだったのだ。
 先日借りてきた「森崎書店の日々」という映画を観ていたら、そんなことを思い出した。神保町の、あの本の匂いが、ほんのすこし鼻先をかすめたような気がした。

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