2016/03/21

曲と時間が共有させてくれる思い

あっという間に2週間以上経ってしまったけど、
5日(土)は
山形交響楽団の第251回定期演奏会
に行ってきました。

母が音楽を教えていて
ピアノはおもちゃがわり、
という環境で育った私にとっては
クラシックは当然のようにそこにあるもので、
いつからか自分もピアノを弾き、
クラシックの世界にどっぷり浸かって
いつかは音楽の道に進みたい、
と思っていました。

悲しいかな、音楽の才能は
その本人にも限界が見え、
結局はそちらには進めなかったのですが、
今でもクラシックは
私の基本であり、立ち返る場所でもあります。


オーケストラがうらやましいのは、
たくさんの人と合奏できること。

ピアノは基本的にひとり、
または連弾でふたりで弾くもので、
よっぽどのことがないと
コンチェルトは演奏できないから、
自分以外の音を聴きながら一緒に演奏するときの
あの心が震える感じは、
やっぱりたまらなくうらやましいなあと思います。


今回のメインは
ブルックナーの交響曲第2番。
山響はこれまで数年かけて
ブルックナーの交響曲を演奏してきたのですが、
今回の2番でブルックナー・チクルスは終了とのこと。

その最後にふさわしく、
繊細で、でも圧倒的な演奏でした。

ブルックナーは
好き嫌いが分かれる作曲家だと言われていて、
私は大好き。
なぜかいつも、冬景色が目の前に広がります。

ブルックナー自身はオーストリア生まれで、
北国に住んだことはないはずなのに、
なぜなんだろう。
しかも、「敢然と立ち向かう」という言葉が
思い浮かぶのです。


その「立ち向かう」対象が何なのか、
今回ちょっと腑に落ちた気がします。
たぶんその冬景色は、孤独を意味している。

同じ冬景色を思い浮かべる作曲家は
私にとってはシベリウスもそうなのだけど、
シベリウスが「孤独を内包する哲学者」だとしたら
ブルックナーは「孤独に立ち向かう冒険者」。

シベリウスが孤独を抱えて
内側に深く入り込むと感じられるのに対して、
ブルックナーは
敢然と勇気を持って、
その孤独を超えていこうとしている。

たぶん、私はその思いに
心を震わされるのです。


第1楽章から涙がこぼれ、
ひとつひとつの音が
細胞の奥深くまで入り込んでいき、
指先や爪先まで
ブルックナーの音に満たされた演奏会でした。
あまりの音にやられて、
終わったあとは放心状態。

あんなすごい演奏を
地元の山形で聴けるのは、
本当に嬉しかった。


終了後、
遠く千葉からこの演奏会のために
山形に来ていたゆうすけさん
話す時間を持ちました。

ビオラ弾きとしての
演奏者の目線から聴く話は、
やっぱり私には知り得ないことがたくさんあり、
演奏のことも、仕事やら生活のことやらも
うまく言葉にはできないような、
深い思いを共有できた時間になりました。


同じ時間を過ごした人だからこそ、
伝わって理解し合えることがある。

そしてその一方で、
何百年の時を経て演奏される曲に、
きっとその当時と同じように
涙をこぼして感動することもある。

真ん中にあるのは、
関わる人の真摯な思いだけ。


そんなことを思った、
とても素敵な3月の夜でした。

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